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墨の歴史 中国編


唐・五代時代

唐時代に日本に伝わった墨は、中国と朝鮮製でどちらも正倉院に保存されています。正倉院には、この時代のものが十五挺ばかり保存されおり、 このうち十二挺は舟型で、三挺は円筒形であります。

これらは聖武天皇御用品であり、この時代は松煙墨で主に易州・歙州で、中でも易水は唐時代の製墨の中心地でした。ここの墨を「上谷墨」といって、このことは、「墨経」という書物に記載されています。
 この墨は、30センチあまりもある大墨で、このまま使ったのでなく切って用いたのだろうと推定されます。
墨を数えるのに"丸"といい、漢時代の墨丸の名残とも考えられますが、形も球状でないかと思われます。

 中国の詩人の李白(701-762)の詩句に「蘭麝凝珍墨」「上党碧松煙」というのがありますが、前者は、名墨には麝香を入れて固め、上党は産地で山西省の東南部であり、今日の長治市を示しています。

 唐時代になると墨匠という墨造りの名士が出てくるようになります。代表的な人としては、祖敏・奚超・奚起・張遇・陳贇・李陽冰・李慥・王君得・奚廷珪などがいます。

李陽冰は唐時代の代表的な書家で篆書の名手として知られています。『城隍廟記』などの名作があり、優れた書家は、墨造りに並々ならぬ関心と意欲を持っていたことを示してうれしいかぎりです。

墨匠のほとんどが易州に居住していました。しかしながら、唐時代の製墨の中心地であった易水地域は乱世となり、墨匠たちは南唐の歙州に移り住むようになります。

ここは、もともと墨の名産地として知られているところだったのです。奚超という人がその主役をなし、奚廷琳がそれを発展させたといわれています。
歙州は、易州に条件が似ていましたが、歙州の地は、い山の松、羅山の松、黄山の松などあります。歙県は、宋の宣和三年(1121)徽州と改称し、以後徽墨の名をもって呼ばれるようになりました。

 南唐の李後主は、廷珪に李の姓を与え墨務官に任命したのですが、これが安徽省の墨業を盛んにし、今日まで伝わっています。李氏のほかに耿・盛氏などの墨匠がいました。

五代から宋にかけての著名な墨匠としては、李超・李廷珪・李廷寛・李承浩・李承晏・李文用・耿仁・耿遂・耿文政・耿文寿・盛匡道・盛通・盛真・張谷・張処厚・朱逢・朱君徳などがいました。




 「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長) 日貿出版社  より