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墨の歴史 日本編

奈良時代から平安時代

全国各地から平城京に届けられた貢物(地方の特産品)の付札(送状)が、一定の書式(品名、数量、住所、戸籍筆頭書、氏名、年月日)で書かれています。これなどは、出先の役人(国衛−県庁、郡家−郡役所)の肉筆と思われます。最近、出先の国衛(県庁)、郡家(郡役所)、九州大宰府(九州の一部を除き大部分を管領する)、多賀城(東北地方全域を管領する)などの各遺跡の発掘調査が進むにつれて、現地でも、この時代に対応する木簡が出土し、両者いずれも千二百五十有余年前に、出先の役人でも、これだけの字が書けたのかと、今更ながら驚かされます。
今日まで、正倉院御物で保存されているのは、天皇を始めとして上層階級の肉筆だけで、奈良写経の字は写経師(職業人)の肉筆である事は、正倉院文書で察知する事ができます。これらの文字は経典として拝観するために、下位の人の肉筆という実感が伴わなかったが、平城京から出土した木簡によって、当時の下級役人の事務上の肉筆を見れば、おそらく日本人である限り無関心でいられないと思います。
平城京の造営や、東大寺大仏鋳造、造営、官寺の移築、更には貴族や氏族の寺の創建などが相次いで起こり、そのため平城京に集まった人口が二十万有余人にも達したといわれています。その中で墨を使ったと思われる人は約一万人(平城宮内五千人、平城宮外五千人)余と言われています。また、寺の創建とともに経典の充実を図るため、写経を行ったから、写経が事業と化し、その上、五千巻の一切経を二十数回、その他各種の経典、経疏(経典の解釈)も写しましたので写経所が数多く設置されました。
東大寺写経所などで用いられた和墨は、中墨(価格三十文)で平城宮の下級役人は下墨(価格十文)を杯蓋研(フタシキスズリ)で磨って木片に墨書し、日常の事務用に使っていた事が解ります。前頁で書きましたが、誤字の訂正に木片を小刀で削り、その削り屑に墨のついたものが沢山出土しております。
この当時の造墨は次のような状態だったとされています。
和豆貨(和都香)……平城の北、木津川の上流恭仁京付近播磨国(播磨国衛−県庁)の工房、
上記2件……正倉院文章に記録
平城宮図書寮工房
大宝律令によれば、実施されているはずですが、未発掘調査で、平安京延喜式には明記されています。
九州太宰府直営工房
最澄(伝教大師)帰朝途次、立ち寄って筑紫墨三丁もらって上京した記録があります。
奈良朝末期に始められた事が延喜式の年料別貢物に明記されています。
墨の原料となる掃墨(松煙)や膠は、漆や絵具と共に絵師や仏像の仕上師などによって使われていた事は、正倉院文書で所々見受けられます。また、孝謙天皇の代に百万塔陀羅尼経の印刷にも使われたものである事から、すでに奈良時代には墨は造られていたと思われます。
平城京の時代に書が普及したのは、大宝の律令が西暦700年に完成され、西暦702年に施行された事によって、初めて墨が造墨手4人により造墨されたことから墨の生産が急激に増えてきたためであると思います。それは当時、大宝律令の施行に当たって相当数の使いを出して造墨の事を説明し、またそれが実施の成否を確認している事から造墨された事が察しられます。



 「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長) 日貿出版社  より