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墨の歴史 日本編

鎌倉時代から江戸時代

中世期に入ると紀伊国の藤代、近江国の武佐、丹波国の柏原、淡路島などで製墨が行なわれました。このときの墨は松煙墨です。
鎌倉時代の藤原伊行の「夜鶴庭訓抄」に「墨は唐墨よし、唐墨もわろきはほくろきはおほくあり。唐墨のよさはおそくつひえ、めでたきもの也。また、墨よけれども、きらめかぬ料紙あり、厚紙、檀(まゆみの)紙、唐(からの)紙などの墨のつかぬあり。されどそれもそれもよき墨にて書きたるが、墨つきはよく見ゆる也。」と書いています。
これは、唐墨が遣唐使廃止後きわめて貴重になっていることを示しています。
この時代には、臨済宗の始祖の明庵栄西が東大寺造営のために寄進した自筆書状があり、唐墨八十五挺が記録されています。
 油煙墨は、鎌倉時代には造られていたのではないかと推定されています。
『雍州府志』巻七の土産墨の項に「近江の武佐、丹波の貝原ならびに洛下の太平墨の製造は、古よりこれあり。
然れども、その色は淡墨にして粗薄なり。中世南都の興福寺二諦坊は、持仏堂の灯火煙の屋宇に薫滞せるものを採り、牛膠に和してこれを製す。これ南都の油煙墨の始めなり。
今まれに存す。その後南都の工人これを倣って油煙を採りてこれを造る。
洛陽(京都)にて墨所と称するもの、またその製造は精密にして、中華の造るところに愧ざるなり」とあり、奈良時代に油煙墨が興ったことを書いています。  
 江戸時代になると徳川幕府は、中国文化を尊び、唯一の門戸の長崎を通じて大名や豪商などが文房具に装飾としての興味を持ち、外国文化への憧憬から唐様書道を初め、文房四宝にも高い関心を示すようになりました。  
当時の代表的書人の市川米庵などは、墨にも高い関心を示し、『米庵墨談』を刊行しています。製品としては、今日でいう江戸古墨といわれるものですが、中国の唐墨には及びません。  江戸時代は、奈良が墨の中心的産地であったが、この他に紀州藩(藤白の墨)尾張藩(束秀園)の墨が知られていました。



 「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長) 日貿出版社  より