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墨の歴史 日本編

奈良墨のおこり  松煙墨

奈良の墨のはじめをたどれば、松煙墨にゆきあたります。奈良朝時代の後期、平城京図書寮工房の出先作業所のある和束で掃墨(粗製松煙)が初めて製造されました。
これを精製して写経用の松煙墨としたものが和束墨で、奈良朝時代を通じて産地名が明示された墨のはじまりであり、我が国松煙墨のはじめかと思われます。
以後、この墨を増産するために西播地方(針間国)でも造墨に着手するようになり、西紀七六七(神護景雲一)年に行われた称徳天皇勅願の一切経の写経には、和束墨と針間墨が用いられています(正倉院文書)。
昭和五十一年に平城京の域内と域外から、二度にわたって出土した松煙墨は、この頃のものであります。
また、東大寺の大仏造立にあたって、造寺、造仏、材木の集荷等のために品質の悪い墨(凡墨・下墨、原料掃墨)が使用されたらしく、この墨を製造する造墨長上(類集三代格)が任命されています。
このことから、奈良朝時代の中期頃から造墨が始まっていたことが推測されます。
 西紀八二二(弘仁一三)年、嵯峨天皇の代に、大政官符で全国それぞれに墨工を一人置き、紙と筆については各国の事情に応じて定員を定めて、それらの工人を置くよう布告され、瀬戸内沿岸の六か国と、丹波、近江の二か国、計ハか国がこれを実施しています。  
その後、都が長岡に遷り、さらに平安京遷都が行われ、南都仏教の粛正が行われると、造東大寺司も廃止となり、和束の造墨も中止されることとなりました。
桓武天皇の延暦二三年頃の松煙墨の産地は播磨国と太宰府(築紫)で、当時唐に渡った僧最澄は九州の産物を手土産に持参したがその中に築紫墨、筆、紙があり、台州の大守(群長)に贈って便宜を計ってもらつています。
この頃の唐は九代徳宗の昭代で、墨は松煙墨が使われていました。
最澄と共に唐に渡った空海は、長安の都、青竜寺で恵果の指導を受け、真言の奥儀をきわめて帰国していますが、短い留学期間の空海が、墨の製法まで研究して帰ったとは考えられないし、まして中国で油煙墨の製法が始まったのは空海の没後二百年余のことでもありますので、空海が興福寺二諦坊で油煙墨の製法を指導したという伝説は誤りであります。  西紀九二七(延長五)年に完成、西紀九六七(康保四)年に施行された延喜式によると、造墨については、奈良朝時代末の和束墨の松煙墨の製法と大きさや形の規格が定められています。
大きさは平城京出土のものの約一・五倍で、写経紙四百枚を書き写すことができ、形は凹みの船型(奈良朝時代と同型)となっています。
この後、松煙墨の製法は改良されることもなく、室町時代の末頃、織豊時代に至るまでの約八百年余りの間、各地で製造されてきました。
それは奈良の松煙墨製法の延長に過ぎず、墨質の進歩はなかったが、墨の規格については、時代の流れと共に小型となり、また形も産地によって変わってきました。  
こうした中にも地方政治の変遷、老松の枯渇、墨工の四散等、原因は種々考えられますが、松煙墨は奈良の油煙墨に圧倒されて、消滅するに至ったと思われます。



 「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長) 日貿出版社  より