墨の歴史(日本編)

墨の歴史 日本編

奈良墨のおこり・油煙墨

墨の歴史 日本編

平安時代の末頃になると松煙墨を製造して都に供給していたのは丹波国だけで、地方まで供給することは望み得ませんでした。そこで、古くから手近に製造されていた荏胡麻の油を使って墨を造ることが行われるようになりました。ことに南和地方では大般若経六〇〇巻、法隆寺一切経写経が行われたため、各寺の僧侶の下に田堵名主層が集まり、写経用の墨が造り出されています。また、これと前後して興福寺春日版の開板(木版印刷)が行われ、油煙墨が使用されました。その後、治承の乱で南都社寺は灰塵に帰したが、五年後には復元され、興福寺別当信円時代に春日版再興経典の充実が計られました。鎌倉時代の初めは油煙墨製法の進歩もあったが、文永、弘安の役や南北朝の内乱では興福寺の上層部も2派に分かれ、これに従って庶民もまた南和と北和に分裂するという事態に立ち至りました。しかし、南北朝が統一され、政局も安定するに従って、興福寺二諦坊の支援によって「日本奈良墨始」と刻印した油煙墨が造られるようになりました。

この刻印の墨は決して油煙墨の最初のものではなく、すでに南和(巻句地方)で造られていたものが奈良に移り、室町時代の初め頃から奈良で製造されるようになったと考えられます。応仁、文明の乱によって、長く栄えた都は廃虚と化し、幕府、公家の権勢は衰え、各地の守護大名が地方に割拠し、戦国時代の幕開けとなりました。都の公卿、五山叢林の禅僧たちは地方に流浪し、中央の文化が地方に流れ出る契機となりました。関白一条兼良も奈良興福寺大乗院尋尊を頼って一族と共に禅定院に身を寄せました。一乗院には公家の人々も身を寄せていたし、連歌師宗祇や、その他の文化人も兼良等を訪ねてくるようになりました。

茶人の村田珠光や林浄二(鏝頭屋)も奈良で文化活動を行い、大和武士達も部下を連れて奈良に駐在するようになりました。奈良の町は人口も増え、京都と奈良が我が国の政治・経済・文化の中心となり、庶民もこれに呼応したから、奈良の町は大いに栄えました。次に列記する日記類によって、この時代を中心に奈良の油煙墨の概要を知ることができます。 大乗院尋尊寺社雑事記、蔗軒日録、実隆公記、多門院日記、鹿苑日記等、特に多門院日記(多門院英峻)によると、油煙墨の製法がすでに今日の製法の域に達していることも知ることができます。また、油煙師(墨工)が今辻子郷に一人だけでなく数人住んでいたこと、それらの墨工が大阪へ移住(石山本願寺寺内町に墨屋ができる)、また薬屋宗芳が墨の取次店をするなどの活躍ぶりが興味をひきます。

天文一揆(天文1年)は一向宗徒の奈良、今井への進出を意味するものだが奈良の一向衆徒の蜂起中、市郷の商人達が興福寺六万衆の圧制に反発して、この一揆に参加しました。一揆は興福寺と春日杜の一部を焼き、越智氏、筒井氏(大和武士、地侍)の加勢によって鎮圧されたが中市は廃止となり、天文2年頃からは高天で高天市が学侶達によって開かれるようになりました。
箸尾の油商人が奈良に進出するようになるのは、この頃からであります。これは、興福寺勢力が後退して油座の統制も乱れ、矢木仲買座、摂津木村油座等も次々と解体、符坂油座の独占権も弱まって、箸尾の油商人の奈良への進出を排除することが出来なくなったことを物語っています。
一方、今辻子の墨工達は、興福寺以外の需要にも応じ、木津加茂付近まで、すなわち加茂の海住山寺、岩船寺等に油煙墨を売り歩くようになりました。

こうして江戸時代の初期には、今辻子から出て奈良の町に店を構えた墨工達によって、南都油煙墨が宣伝され、荏胡麻油にかわって菜種油も入手しやすくなったので墨屋の数はさらに増え、三八軒から40軒の墨屋が出来ました。こうなると南都油煙墨として特産物ともなって、8代将軍吉宗の時代から、紀州でも藤代墨が造られ、丹波では「にぎり墨」を造り、四国丸亀にも墨屋が一軒出来るなど、奈良の油煙墨の市場は狭められることになります。

この苦境を脱却するため松煙製法の改良や、和歌山から紀州灰、また他の国からも土佐灰、讃岐灰、日向灰三州(三河)灰、越後灰等々、各地の松煙を買入れるなどの工夫と努力で、油煙墨と松煙墨の二本立ての奈良の墨が全国に特産物として知られるようになったのであります。さらに、明治・大正時代になると、墨工は酒屋の杜氏と同じで、伊勢、但馬等の各地から農閑期を利用して出稼人として奈良にくるようになりました。 第2次世界大戦を境いに、世の中の姿が変わり、奈良の墨屋もその消長は激しく、墨工も減るなど墨の世界も下り坂になりつつあるのが現状であります。
ところが、墨とは単なる事務用品ではない。たとえば 米国ニューヨーク市のバッファロー大学のムロゾスキー博士(世界的に有名な炭素学者)が古墨の青墨を見て「最高の墨色と指摘されたことや、大阪万国博の時、テンマークのクリステン博士が平城京から出土した木筒を見て墨に興味を持ち「ヨーロッパで見られない文化遺産である」と賞讃されたこと、最近では長谷川潔氏が18世紀銅版画の印刷に墨を用いて、フランスの最高の芸術賞を獲得されているなど引例すれば限りないほどの讃辞が寄せられています。

奈良の墨は衰退していく地場産業の産物の一つではなく、東洋文化の粋として、書画には不可欠のものとして、世界の関心を集めています。

「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長) 日貿出版社  より